DAYDREAM

白日夢を徒然なるままに

特務艦「宗谷」の軌跡(2)

前回のエントリで戦時中の宗谷の時系列年表を載せましたが、特務艦時代の宗谷のエピソードはなかなか興味深いものが沢山あるので、ここでいくつか紹介できればと思います。

Soya_compass

宗谷」の羅針盤(回して遊ぶものではありません)

輸送艦なのか測量艦なのか?

特務艦時代の宗谷は主に南方方面(ガダルカナルやソロモン周辺)での測量任務(ここで言う測量とは海の深さの測量)を多く行っています。そもそも輸送艦のはずなのになぜ測量任務を行っているのでしょう?

元々砕氷型貨物船だった宗谷は帝国海軍が購入し軍籍に加えたわけですが、実は海軍は宗谷に搭載されているある物が狙いでもありました。それは、当時としては高性能なイギリス製の音響測深儀(水深ソナー)で、宗谷はこれを当初から搭載しており測量艦としての能力も期待できたのです。

トラック空襲以降は測量設備を撤去し武装を強化したため、測量艦としての役割を終えて純粋に輸送艦として活躍することになります。

■観艦式

宗谷は戦争直前の昭和15年10月11日に横浜沖で開催された紀元二千六百年特別観艦式(帝国海軍が実施した最後の観艦式)に拝観艦として参加しています。

ちなみにこの時の御召艦は「比叡」、供奉(ぐぶ)艦は「古鷹」「加古」、先導艦は「高雄」でした。当然、戦艦「長門」や空母「赤城」など主力艦も参加しており、総勢100隻近い軍艦・艦艇が参加していたようです。

宗谷は番外列13隻中の9番目として給糧艦「間宮」や工作艦「明石」などと一緒に列に並んでいたとのこと。番外列は見る限り特務艦列ですかね。現在、当時の華やかなりし連合艦隊が参加したこの観艦式を知る船は宗谷ただ一隻のみです。

■潜水艦を撃沈した話について

これは諸説あるようですが、どうも事実ではないようです。そもそもアメリカ軍の記録に該当すると思われる潜水艦の記録がないらしく「撃退」した、というのが正しい表現のようです。

現在宗谷艦内に掲示されている年表によれば1943/1/28の戦闘における潜水艦撃沈とありますが、この時宗谷は対潜装備として爆雷をまだ搭載していなかったと言われており、もし撃沈したとあれば同行した二十八号駆潜艇の功績と思われます。

ちなみに終戦間際の1945/6/25にも三陸沖で敵潜水艦からの攻撃を受けており、この時は同行していた海防艦「四阪」らによって潜水艦は撃退されています。

■トラック空襲

宗谷最大のピンチは1944/2/17-18のトラック空襲でしょう。実際にこの時トラック島に停泊していた輸送船がことごとく沈められており、駆逐艦舞風」や軽巡「那珂」が犠牲になっています。宗谷もトラック環礁の夏島と竹島の間に投錨していたところを空襲に会っています。

トラック空襲における宗谷の状況は以下の通り。

17日・・・6回の爆撃と2回の銃撃を受けるも回避し損害なし。敵機1撃墜。下士官3名戦傷。

18日・・・小破。敵機1撃墜。砲術長以下9名戦死。測距儀、二十粍機銃大破。戦闘不能となり総員陸上に退去。

17日に座礁しており(戦闘中とも戦闘後のパラオへの待避中の座礁とも言われる)19日に離礁しているが、18日の戦闘での被害はこの座礁の影響もあると思われます。この時の艦長である天谷大佐は直後に更迭され、責任を感じたのか後に拳銃自殺しています。

From_bridge

現在の宗谷艦橋から船首方向を眺める。前部甲板(マスト向こうの緑色シート付近)に八糎高角砲が備え付けられていたと思われる。

てか、いつの間にかWikipediaの宗谷の記載が大幅改訂されているので、そっちも併せて見て貰うのがいいかもです。全般的に内容の充実振りがマジパナイ。

【参考資料】『特務艦「宗谷」の昭和史』(大野芳著)