DAYDREAM

白日夢を徒然なるままに

映画「リズと青い鳥」

映画「リズと青い鳥」鑑賞してだいぶ時間が経ちましたが、感想書きます。

 

この映画はあの「響け!ユーフォニアム」シリーズのスピンオフ。当該作品の登場人物である3年生(!)コンビであるオーボエ担当の鎧塚みぞれとフルート担当の傘木希美の物語。

 

 

原作となった「響けユーフォニアム 波乱の第二楽章」後編を読んだときからこの映画にメチャクチャ期待してましたから。なんというか、高校生らしい儚くも美しく、そして残酷な友情の圧縮形がここにある、といったような感じでTVアニメシリーズ、いや原作2巻の初出時からこの二人の顛末には目が離せないわけですよ。

 

しかも、女子高生のアンニュイさを描かせたら右に出るモノはいない京アニの山田監督作品となると、もうこれは見に行かないといけないわけです。

 

 

キャラクターデザインについて

映画は90分間ほぼずっとみぞれと希美二人の話で、あとは同じ学年の吉川優子と中川夏紀、そしてみぞれの後輩である剣崎梨々花がストーリーに絡むくらいで、原作主役の久美子やその取り巻きを入れた4人組(北宇治カルテット)ですらちょい役でしか出てきませんね。

 

しかも、この映画だけキャラクターデザインがTV版とは違うんですよね。特にみぞれはTVアニメ版の「アニメ的かわいさ」ではなく、線の細いキャラデザになっているのでより「儚(はかな)さ」が強調されていますよね。

 

そのみぞれのデザインに初めは違和感があったのですが、映画を見終わってその意図を理解できた気がします。やはり、この物語ではみぞれは儚さの象徴。キャラデザにもしっかりそれを落とし込むことでこの映画は世界観を構築していっているんだなぁ、と感じました。

 

キャラデザ変更はいろいろ意見もあると思いますが、前記のように話の世界観に合わせてキャラクターのデザインを変えるのは映画を見た限り正解だったと思います。そして、今までのユーフォシリーズの話とは視点も主要キャラも異なる一線を画した物語として成立させたい監督の意向もあったんじゃないかと感じましたね。

 

 

吹奏楽曲「リズと青い鳥」 

リズと青い鳥 コンクール用編曲Ver.

リズと青い鳥 コンクール用編曲Ver.

  • provided courtesy of iTunes

 

 劇中で北宇治高校吹奏楽部が演奏している曲が「リズと青い鳥」です。TVアニメ版ではコンクールの自由曲として「三日月の舞」が演奏されましたが、その翌年度の自由曲が「リズと青い鳥」になるわけですね。

 

明るく快活な第一楽章「ありふれた日々」、タイトルとはミスマッチな重々しい雰囲気で始まる第二楽章「新しい家族」、冒頭のオーボエとフルートの掛け合いが印象的な第三楽章「愛ゆえの決断」、そして大団円の第四楽章「遠き空へ」

 

全体的に「リズと青い鳥」という劇中の架空の物語をベースにした曲ですが、「三日月の舞」のように技巧的で派手な盛り上がりがある曲では無いですね。ですが、リズの方がいわゆる吹奏楽曲的な優しい雰囲気を持った曲で、どこか懐かしくそして美しい曲という印象。

 

「三日月の舞」の時よりも吹奏楽オーケストレーションがこなれていて、曲そのものの響きにムダが無くとても濃密な感じがします。

 

リズと青い鳥」の(実際の)作曲者は「三日月の舞」と同じ松田彬人ですが、とても良い曲で気に入ったので速攻サントラ購入して聞いてます。それにしてもこのサントラは録音が素晴らしい!

 

ところで、北宇治にはいつの間にかハープがいるんですね。しかも、コントラファゴットまで。 高校の吹奏楽部としてはかなり豪華な楽器編成ですよ。

 

 

感想(ネタバレあり)

原作の「響けユーフォニアム 波乱の第二楽章」後編でのクライマックスと言えるみぞれと希美の立ち位置が入れ替わる場面。まるでシーソーのように「パタンッ」と切り替わる音がどこからともなく聞こえてくるような錯覚を覚えたのを思い出します。

 

山田監督がこの映画でどのようにこの「パタンッ」という音を視覚的に見せてくれるのかを楽しみにしていたのです。ここが一番の注目点でした。

 

原作では久美子を媒介として希美にみぞれには敵わないという本心を独白させるのですが、この映画ではみぞれの成長(希美への依存脱却)を切っ掛けとした希美との会話から始まるのですね。

 

希美はユーフォシリーズにおいては「コミュニケーション能力は高いが生きるのにちょっと不器用な娘」として描かれていますが、それがなんとも言えない人間味というかリアリティを感じさせると思うのです。 

 

しかも、みぞれという才能を「持っている」存在が目の前に現れることで、希美自身は「持っていない」ことを自覚してしまうわけで、なんとも残酷な現実を突きつけられてしまうわけです。

 

一見するとかわいそうな娘なのですが、これは現実社会ではよくある話で「持っていない」自分に気付かされて気落ちしてしまうことなんて大人になるとよくあることなんですよね。

 

けど、高校生として将来の選択が絡んでくると夢を諦めなければならないようなケースもあるわけで、まさに今回の希美はみぞれとの比較から自分ではどうにもならない差を自覚させられて音大という進路を諦めるわけです。

 

どうもこの映画はみぞれに感情移入する人が多いみたいですが、私は何故か希美の気持ちが痛いほどよく分かってしまうので、終始希美に感情移入して見てしまうのです。

 

原作の時はこの二人の関係を完全に第三者的に「のぞき見」的に読んでいたので、立場の入れ替わりをシーソーゲームのように感じられたのかも知れないですが、映画では希美を中心に見てしまっていたので、なんとも胸を締め付けられるような複雑な感情で映画の終盤を見ていました。

 

これはアニメのキャラもきちんと演技をして、感情さえきっちり表現してしまう京アニの作画があってのマジックなのでしょう。もちろん監督の力量もあると思いますが。

 

吹奏楽を切っ掛けにユーフォシリーズを小説・アニメとも見てきましたが、この映画は音楽だけで無く「アニメでの感情表現」という意味でも興味深かったです。

劇場版 響け!ユーフォニアム 〜 届けたいメロディ

【以下、ネタバレ含みます】

 

 

見てきた。

 

TVアニメの単なる2期総集編かと思いきや、結構新規のカットやシーンがたくさんあってビックリ。正直、1期の総集編劇場版が省エネな感じだったので良い方に裏切られた感じです。

 

これは監督を変えたというのが大きいのでしょうね。物語を見ている視点が結構変わっていて、そのあたり「監督の色を出してきた」というのが影響しているのだと思います。

 

久美子とあすかの関係性に大きくフォーカスされた物語になっていて、本当に原作第三巻の雰囲気そのまま。個人的に好きなのはみぞれと希美の話の方なのですが、こちらは別の映画になるようなのでそちらにも期待です。

 

と言うことで箇条書き感想です。

 

・TVアニメではカットされていた吹奏楽曲のほとんどをフルで聞ける。「宝島」をちゃんと最後まで聞けるのは劇場版だけ!

 

・我らが夏紀先輩の登場シーンが、前の劇場版より多くて良い

 

・追加された新規のシーンが非常に効果的。TVアニメ版とはまた違った視点からの話になっているので裏話的なストーリーも多々あり

 

・逆にTVアニメを見ていないと分からないところもある。例えば全国大会後での久美子と麻美子の会話がカットされてる。これは、久美子とあすかの話だというところに配慮してだと思うけど、印象的なシーンだっただけにちょっと残念に感じる

 

・内容とは関係ないが、映画館の音響の限界を感じた。関西大会や全国大会などホールでの演奏シーンがそれなりにあるが、迫力重視の映画館の音響では音楽としての美しさが損なわれてるなと感じた。

「宝島」は映画館でノリノリで良い感じになるのだが、「プロヴァンスの風」「三日月の舞」がよろしくない。吹奏楽はホールの音響で聴くのが一番。当たり前だけど。

 

・あの最後の山田監督の次回作の特報は今までと全然雰囲気違うし、唐突すぎて意味わかんない。あれがみぞれと希美の話になるの?(最近出た原作にでてくる物語の名前って事は知ってますよ)

 

・しかし、これほどユーフォニアムという楽器がフィーチャーされる話も珍しいでしょう。元ユーフォ吹きとしては大満足

 

 

というわけで、TVアニメ版を見ていた人もいろいろなところがちょこちょこと変わっているので、また違った感覚で楽しめると思いますよ。

映画「サバイバルファミリー」

見てきた。

 

survivalfamily.jp

 

この映画、矢口監督作品でなかったら見に行くことは無かったと思う。

 

はっきり言って自分にとっては久々に映画見たのを後悔しました。鑑賞に費やした2時間と1500円を返して頂きたい。それくらい「矢口監督どうしちゃったの?」という作品。

 

やりたいことは分かるんです。テーマはいつもの矢口監督作品らしく分かりやすいし、コメディタッチの演出もいつもの通り。

 

でもね、今回のこれはないよ。

どんなところがダメだったかネタバレしない程度に箇条書きで挙げていきます。

 

・どうしようもないくらい全体的に地味。これ映画じゃなきゃダメだったの?

 

・パニック(ディザスター)映画(?)としてはとてつもなく中途半端。自然災害のような映像としての見せ場も作れない設定だからか

 

・家族の再生物語としてもベタで今更感の塊。実際に東日本大震災を経験して以降はなおさら

 

・サバイバルと言っても結局店の中の物を拝借(窃盗とも言う)するだけ

 

・ストーリーがご都合主義的

 

・そういえば、娘役の葵わかながどこかスウィングガールズの時の貫地谷しほりを彷彿とさせる(これはダメな点じゃない)

 

 

矢口監督の映画のテイストがこの作品の設定と相性が悪いのか、ストーリーの組み立てがいまいちなのかわかりませんが、映像としてもイマイチだしストーリーも起伏に乏しく面白いわけでもなくどこを評価して良いのか分からない映画でした。

 

もう思いっきりギャグに振るとか、荒唐無稽な方法でもいいからパニックの原因となったある事象を一家で解決してしまうとか、もっとエンタテイメント方向に寄っても良かったのではと思いますね。

 

次回作に期待ですね。

映画「沈黙 -サイレンス-」

見てきた。

 

chinmoku.jp

 

実はこの映画、公開初日(1/21)に鑑賞していたのですが、感想をしばらく書くことができなくて、やっと最近になって心の整理が付いてきたのかこの映画に対する言葉を紡ぎ出せるようになった作品です。

 

久々に凄い映画だった。映画を見るのをやめられないのはたまにこういう映画があるから。

 

心を揺さぶられ、そのストーリーや登場人物に思いを馳せることでしばし沈思黙考してしまうこのような作品に出会えるのは私にとって映画の醍醐味なんですよねぇ。

 

「ドクター・ストレンジ」のような娯楽大作も映画として楽しく鑑賞できましたが、全くデートに不向きなこういう映画もまた映画なんですよね。表現とは奥が深いです。

 

原作である遠藤周作の「沈黙」は学生時代に読んだことがあるのですが、この映画を鑑賞した後もう一度読み返してみて内容を勘違いしていたことに気がつきました。

 

それはロドリゴの棄教(転ぶ)に関して。結局この人はキリスト教を完全に捨ててしまって幕府の側に付いてしまった人と思っていたのですが、そうではなく信仰は深く内に秘めた形で心の底から転んではいなかったのですね。

 

そういった勘違いもあり、当初はこの「沈黙」という原作は人の弱さだとか、世の理不尽さだとかそういったことがテーマなのかと思っていたのです。

 

全然違いましたね。己の思慮の浅さに自己嫌悪です。

 

改めて考えると「本当はそうしたくないのだが、何か自分の大切なもののためにあえてそうする」って、誤解を恐れず凄く簡単に言うとそういうことなのかなと。

 

人も生きていく中で程度の差こそあれそういうことをする場面って少なくないと思うんですよね。家族のため、友人のため、会社のため、信念のためなどなど。そこで自分を犠牲にしてまで「それ」が出来るかって話かと。

 

この作品では「(表向き)信仰を捨てる」という行為ですよね。”あえてそうする”という行動に当たるのは。

 

もちろんそうするには自身のとてつもない葛藤と勇気が必要なわけで、それは人の弱さどころかむしろ強さなんじゃ無いかと思ったわけで。

 

対照的に、キチジローは普通の人間ですよね。彼のとった行動を、そしてその弱さを責められる人間がこの世に果たしてどれだけいるというのか?

 

いや、返す返す凄い映画を見たなと。さすがスコセッシ監督です。

映画「ローグ・ワン / スター・ウォーズ・ストーリー」

見てきた。

 

この手の映画はあまり事前情報を仕入れずに見に行くのですが、今回はスターウォーズのサイドストーリー的なモノと言うことで、とりあえずエピソード4のストーリーを若干復習してから鑑賞しました。

 

それというのも、この映画はエピソード4の直前の話で、エピソード4を見た人は知っていると思いますが、デス・スターの設計図を帝国側から奪った反乱軍の話だからです。

 

で、内容に関してですが、正直に言うと前半部分はあまり頭の中に残ってません。なぜなら寝ていたから(笑

 

スターウォーズシリーズはそれなりに見てはいますが、ファンと言うほどでも無いので比較的動きの少ない初めの方はファンの方にはそれなりに見所があったのかも知れませんが、そうで無い自分にはかなり退屈に感じました。

 

話が面白くなるのは、デス・スターが稼働し始める頃当たりからで、この当たりからスターウォーズらしい冒険譚や戦闘シーンがガンガン出てきて、「やっときた!」となります。

 

で、後半はひたすら戦闘シーンなのですが、今までのスターウォーズだと戦闘シーンは結構あっけらかんと言うか、ゲームを見ているような印象があったのですが、この映画に関しては戦闘にかなり情が籠もっているな、と感じました。

 

そう、やたら人が死ぬんです。なんというか、使命を果たすための犠牲というか、後事を託した後の観念というか「情」を抱えて死んでいくのです。

 

恐らくこの映画の一番の特徴はそこでしょうね。

 

激戦地が題材の戦争映画を見ているような。まぁ、スター「ウォーズ」だから当たり前なんですが。

 

ここで感動した!という人も多いのは知っているし、日本人でもとても共感できる所なのですが、自分は若干の違和感を感じずにはいられませんでした。

 

凄く言うのが難しいのですが、簡単に言うと「話が妙にウエットでスターウォーズっぽくない」のです。話の中ではっきりとは言わないまでも、我々がニュースで知っている現実世界の話にリンクしてくるようで生々しく感じるのです。

 

スターウォーズはそういうのを忘れて見る娯楽大作だと思っていたのですが、、、考えすぎですかね?

映画「この世界の片隅に」

見てきました。

 

これで2016年公開の三大アニメ映画(「君の名は。」「聲の形」「この世界の片隅に」)を制覇したどー!

 

それはさておき、こうの史代の漫画はかの名作「夕凪の街 桜の国」は持っていて、そういえば実写化された映画も見た記憶ありです。

 

あ、あったあった。映画に関しては9年前の過去記事にありました。

 

daydream2006.hatenablog.com

 

こちらは広島に投下された原爆にまつわる話で映画に関してはイマイチでしたが、今回見た映画「この世界の片隅に」は戦争に翻弄された市井の人を描く作品としては間違いなく傑作だと思います。

 

ある意味、こうの史代の漫画は絵柄がすでに卑怯というか、「この世界の片隅に」のストーリーにとても良く調和していて、アニメ映画にもそのテイストは受け継がれあの独特な「ほわーん」とした作品の雰囲気を作っていますね。

 

で、手短に感想を書くと「雰囲気はほんわかだが、内容は圧倒的な狂気」とでも書いておきます。

 

正直、見終わったときは恐怖すら感じました。

 

淡々と物事を描いているからこそのそこに秘められた強烈な狂気。

細部のディテールに込められた圧倒的な説得力。

 

これらが渾然一体となってひしひしと押し迫ってくるのは尋常では無い恐怖です。もう、戦争反対とかそういう言葉さえ軽い言葉と化してしまうような強烈な体験を映画から受けるなんて思いもしませんでした。

 

これと同じ体験をしたのは沖縄の「ひめゆりの塔資料館」を見学した時以来です。

 

ひめゆりの塔資料館には、亡くなったひめゆり部隊の女子生徒の写真に名前と亡くなった時の状況が簡潔に書かれて掲示されているのですが、あまりに淡々と死の状況が書かれているので、読んでいるうちに「人間ってこんなにあっけなく死んでしまうんだ」と猛烈な恐怖と絶望に襲われたことを思い出しました。

 

もちろんその淡々とした記述の裏に潜んでいるのは沖縄戦の尋常で無い狂気です。

 

同様に「この世界の片隅に」は余計な脚色も無く、ただ淡々とありのままを見せる事で強烈に心を揺さぶる何かをこの映画は伝えていると感じました。

 

そして、能年玲奈のほのぼのとした演技と絵柄から受けるほんわかとした雰囲気に騙されてはいけないです。そこに隠されているのは圧倒的な狂気なのです。

【ネタバレ】劇場版 艦これの所感など

見てきた。

 

一言で言うと「テレビ版の決着を付けるための劇場版」なのではないかと思う。

 

テレビ版のアニメはいろいろ賛否両論あったけれども、いろいろ言われた説明不足な点や中途半端に放置してしまったところなどをこの劇場版で解決させようと頑張った感じ。

 

そして、ゲーム版でも語られることのなかった「艦娘とは何なのか」「深海棲艦の存在とは何か」「轟沈するとどうなるのか」などいくつかの謎にも挑んでいて、このあたりの設定が公式に明らかにされるのは初めてなのでは?

 

個人的に結構納得できたのは、「吹雪」を通して語られる艦娘の由来について。

 

史実ではサボ島沖海戦にてアイアンボトムサウンドに沈んだ「特型駆逐艦 吹雪」。ショートランド泊地まで聞こえる呼ぶ声は結局その「特型駆逐艦 吹雪」自身だったと言うこと。

 

第二次大戦で轟沈した艦そのもの、そこから生み出された洋上を自由に駆ける姿である表の顔が艦娘であり、それらの怨念などが凝縮した裏の顔が深海棲艦なのだと。

 

残念なのは、ここが語られる場面が吹雪の中の精神世界の話になっているので、わかりにくい所があるけれども要はそうなのだと理解した。間違ってるかもだけど。

 

ということは、艦娘はその裏の顔である深海棲艦と戦っていることになり、実は同じ起源から生み出された者同士が戦っていると言うことか。

 

分かりやすく言うと艦娘は実艦のメンタルモデル。アルペジオと違うのはメンタルモデル自身が艤装を付けて戦うところで、轟沈し海底に沈んだ艦自身は再生されない世界。そして深海棲艦、彼らもまた実艦の怨念のメンタルモデルであると。

 

何故、実艦がメンタルモデルを生み出すのか。それはこの「艦これ」という一連の作品の根幹部分であり、制作者が一番言いたいことなのだろう。なので、あえてここでは言わないので是非考えて欲しい。

 

そう考えると如月の輪廻もなんとなく分からないでも無い。怨念に支配されるか、そうでないかで艦娘/深海棲艦の二つの相を行ったり来たりする、ということか?

 

さて、ストーリーに関してだが、基本的にアイアンボトムサウンドで行われた作戦である、第一次ソロモン海戦と第三次ソロモン海戦をベースにそれぞれIFを加えた形の作戦が進行していく形でストーリーが進んでいく。

 

劇場版で迫力を増した戦闘シーンは史実を知っているとさらに楽しめる。

 

特に鳥海を旗艦とする第八艦隊(三川艦隊)が史実では出来なかった輸送部隊を攻撃する所や、第三次ソロモン海戦で暁や比叡、霧島がどうなったかを知っていると見ている方も力が入るというもの。

 

あとは、あのダブルダイソンはサウスダコタとワシントンなんだな、とか。空母棲姫はエンタープライズかな?とか。夕立は史実並みに頑張ってんな、とか。

 

そういう意味では第三次ソロモン海戦に大和がいたら、という興味深いIFにもなっている。

 

 

さて、個人的な劇場版艦これの映画評だが100点満点中の60点くらいの作品だと思う。劇場版としては特に良いというわけでもなく、悪いというわけでもない作品。

 

基本的に「艦これを分かっている人」向けになっているので、艦これのゲームやアニメを知っている人はそれなりに楽しめる内容だとは思う。

 

 

しかし、一番気になるのはTV版とこの映画版あわせて、制作者が表現したかった「艦これ」って本当にこれでいいの?!っていうことだ。

 

「第二次大戦の艦艇」+「美少女」の要素を持った艦娘が、何だかよく分からない設定でドンパチしたりする映像を作れれば良かったのか??違うよね。

 

上の方で「考えて欲しい」と言ったけど、艦艇がメンタルモデルを作る理由は艦艇自身がその存在を忘れて欲しくないからでしょう。この「艦これ」が作られた原点も第二次大戦期の艦艇のことを手段はともあれ、知って欲しい・忘れて欲しくないからじゃなかったのかな?

 

いまのままじゃ、赤城は「大食いのお姉さん」だし、瑞鶴に至っては「ツインテールの加賀さん好きツンデレ娘」のイメージだぞ。

 

それでいいのか?本当にそれで良かったのか?

 

以上