ちなみに長崎市そのものには以前に来ているため代表的な観光地はその時大体行きました。なので、グラバー亭や出島、原爆資料館などへは今回は行きません。
そこで、今回の旅行のテーマは「近代化に伴う重工業の発展(軍事含む)を知る旅」と設定。長崎市では三菱重工長崎造船所資料館と軍艦島(端島)を訪れることにしました。
今回は「三菱重工業株式会社 長崎造船所 資料館」編です。
長崎駅からタクシーで10分ほどで資料館へ到着。Webでは「来るなら電話で予約してね」と書いてあるけど個人客は多分必要ないと思われます。
注)2019年現在、見学予約は必須になっていました。あと、タクシーではダメで送迎バスでの入場のみになってますのでご注意ください。2014年当時は入退館自由でしたがもうそうでは無くなっています。
造船所の構内に資料館があるわけですが、赤レンガでできた建物と塀は趣があります。
資料館入り口付近の赤レンガの壁
資料館
長崎造船所の歴史がギュッと詰まった資料館ということもあり全てを紹介しているとキリが無いので、今回は第二次大戦期に活躍した軍艦コーナーの展示のみここで取り上げます。
まずは戦艦「霧島」コーナーの写真から。霧島は同型艦の「榛名」と共に民間造船所で初めて作られた軍艦なので大きめの扱いになってます。作られたのはもちろんここ、長崎造船所です。
そして、戦艦「日向」。日向も長崎生まれです。
日向に関しては進水式関連の展示も充実していて、超弩級戦艦として期待されていたのが窺えます。
そして、長崎造船所で作られた巡洋艦たち。左から「名取」「木曾」「多摩」。
軽巡洋艦「川内」も長崎造船所で建造されていますが、下の写真は川内の主機タービン部分の写真。つまり動力源の部分です。これはなかなか貴重な写真ですよ。
建造中の橿原丸の写真。そう、後の空母「隼鷹」です。
橿原丸のミニチュアモデル。もし、戦争がなく空母「隼鷹」としてではなく豪華客船である橿原丸として完成していたらこんな船になっていたんですね。姉妹艦の出雲丸(後の空母「飛鷹」)と共に北米航路をゆったり航海する姿が目に浮かびます。
重巡洋艦「鳥海」と「三隈」の進水記念はがき。そういえば、鳥海は艦内の艤装が良かったため艦隊旗艦として好まれて使われたため改装時期を逃すんですよね。これは客船の経験豊富な長崎造船所で製作された所以ですね。
そして、戦艦「武蔵」コーナーです。
さすが武蔵を建造した造船所だけあって、なかなか普段見られない貴重な展示が数多くあります。
武蔵建造中に使われた道具と工程表。なんと手書きのガントチャートですね。
ちなみに、武蔵は長崎造船所の第二船台で建造されましたがその第二船台は現役です。
上の写真左側が当時の第二船台、下が現在の第二船台。ガントリークレーンが面影を残しています。
吉村昭の名著「戦艦武蔵」を読んでいたので、その舞台となった船台と今では一部だけ残っているガントリークレーンを見ることができたので満足。船体を隠すのにどれだけの棕櫚が必要だったのか想像を絶します。
そして見つけたのが九一式魚雷の本物のカットモデル。大戦中に航空魚雷として使われた魚雷で、攻撃機はみなこれを抱えて敵艦を攻撃していたのですね。エンジンがついていたりと思ったより複雑な構造にビックリ。
この航空魚雷も三菱(長崎兵器製作所)が作っていたようです。まぁ、一式陸攻作ったのも三菱だし不思議はないですね。
というわけで、展示品のほんの一部でしたがこれ以外にも多くの貴重で興味深い物があります。本物が醸し出す凄みとオーラをひしひしと感じてきました。ダテに100年以上船作ってる会社じゃないです。
興味を持たれた方は是非一度足を運んでみて頂きたいです。
<おまけ>
第二船台の写真は軍艦島ツアーの船から撮ったものですが、当日近くにこんな船も停泊してました。横須賀のカレーGP以来の再会ですね、「あしがら」さん。
<2015.03.03追記>
捷一号作戦の途上、シブヤン海で沈んだ戦艦「武蔵」と思われる船体が遂に海底約1000mの地点にて発見されたというニュースが本日日本を駆け巡りました。約70年間発見されず、世界の海底を幽霊船のようにさまよっているという噂も出るほど、その沈没後の姿は謎につつまれていましたが、これでようやく明らかになりそうですね。